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漱石と文展と乃木大将をこじつけてみました。 [日記]

 国立新美術館の日展100年を見て、乃木神社にお参りして帰ってきたことは前回の記事に書きましたが、その夜テレビをつけたらたまたまNHKの美術番組で「日展100年」を取り上げていました。見てきた絵を再度画面で確認できて、興味深く番組を見ることが出来ました。その中で、夏目漱石が当時の東京朝日新聞に日展の前身である「文展」の批判をしていることが紹介され、彼が絵画にも造詣が深いことを知りました。
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 そこで若いころ読んだ、漱石を読みたくなり、漱石全集第9巻「心」」を開いたら、その巻の月報にも「漱石と絵」と題して近藤啓太郎と言う作家の「漱石が横山大観を高く評価している」という文章が載っていました。さらに「心」のフィナーレの乃木大将夫妻の自殺(殉死)の場面を改めて読み返しました。漱石と「文展」と 乃木大将、乃木神社のそばの国立新美術館で開催されている「日展100年」不思議な因縁を感じました。
下記は「青空文庫」の「こころ」からの引用です。

夏の暑い盛りに明治天皇《めいじてんのう》が崩御《ほうぎょ》になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後《あと》に生き残っているのは必竟《ひっきょう》時勢遅れだという感じが烈《はげ》しく私の胸を打ちました。私は明白《あから》さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死《じゅんし》でもしたらよかろうと調戯《からか》いました。

     五十六

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生《へいぜい》使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談《じょうだん》を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経《た》ちました。御大葬《ごたいそう》の夜私はいつもの通り書斎に坐《すわ》って、相図《あいず》の号砲《ごうほう》を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将《のぎたいしょう》の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争《せいなんせんそう》の時敵に旗を奪《と》られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日《こんにち》まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月《としつき》を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間《あいだ》死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那《いっせつな》が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解《わか》らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑《の》み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人《こじん》のもって生れた性格の相違といった方が確《たし》かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己《おの》れを尽《つく》したつもりです。
 私は妻《さい》を残して行きます。


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