小林多喜二 その1:東京都杉並区の多喜二 [小さな旅]
最近新聞にカニの通信販売の広告が多い。食欲にそそられて買ってみた。冷凍の宅配便である。解凍を待ち切れず食べたたら氷を食べたようなものだった。がっつかないでゆっくり解凍して味わうべきであったと反省している。
カニと言えば、小林多喜二の「蟹工船」が映画化され、多喜二ブームになった。時代の閉塞感によるものなのか。
写真のように、ガイドブックも岩波新書も出版された。
写真のガイドブックには、一時期多喜二が現杉並区に住んでいた場所のガイドがありました。杉並区における多喜二の足跡をたどってみた。
昭和5年6月大阪で釈放された多喜二は杉並町成宗54(杉並区成田東5-27)の立野信之の家に寄宿した。立野信之は、後に二・二六事件をテーマにした「叛乱」で直木賞を受けた作家である(「叛乱」は映画にもなった)。
写真は杉並区成田東5-27付近。立野の住んでいたあたりは現在別の人の民家となっている。
杉並区は昔の番地が地番としてかなり残っているので、「ガイドブック」はそこから推定しているのではないかと思う。
ここで再び多喜二は検挙され、杉並警察署などに留置された。
写真は現杉並警察署。
保釈後杉並町成宗88(杉並区成田東5-15)の田口家に下宿しました。
写真は多喜二が下宿したと思われる所であるが、現在はマンションになっている。
この近くの青梅街道は数十年前まで都電が走り、この付近に「成宗」という電停があった。
多喜二は殺される直前まで、母と弟の3人で杉並町馬橋3-375(杉並区阿佐ヶ谷南2-22)に暮らしていた。
この付近は、写真のように現在ではアパート群になっていた。
しかも、このアパートは借地借家法を逃れるため「一時使用の鍵利用契約」という管理手法で急成長し、またトラブルにもなっている会社が管理していた。住人は韓国人が多いようだ。多喜二さんもビックリだろう。
築地警察で虐殺された多喜二の遺体はここに引き取られた。ガイドブック、新書、文学アルバムなどには、引き取られた遺体の写真がナマナマしくのっているが、拷問の跡が痛々しい。
多喜二が杉並に住んでいた当時の「成宗」、「馬橋」という地名は今ない。
「成宗」は田端と合併し、「成田」に変えられた(飛行場であるまいし)。
「馬橋」は高円寺と阿佐谷に分けられ、この地名は消失した。以前のブログで取り上げた石川遼君の杉並学院の所在地名も、昔は「馬橋」だった。地名は大切にしたい。
また、JRの駅も「阿佐ヶ谷」と表記するが、住居表示では「阿佐谷」とされてしまった。つまり地名では「ケ」が取られてしまったのだ。初老で髪の毛が薄くなりつつある世代としては「ケ」が取られて、残念至極である。
カニと言えば、小林多喜二の「蟹工船」が映画化され、多喜二ブームになった。時代の閉塞感によるものなのか。
写真のように、ガイドブックも岩波新書も出版された。
写真のガイドブックには、一時期多喜二が現杉並区に住んでいた場所のガイドがありました。杉並区における多喜二の足跡をたどってみた。
昭和5年6月大阪で釈放された多喜二は杉並町成宗54(杉並区成田東5-27)の立野信之の家に寄宿した。立野信之は、後に二・二六事件をテーマにした「叛乱」で直木賞を受けた作家である(「叛乱」は映画にもなった)。
写真は杉並区成田東5-27付近。立野の住んでいたあたりは現在別の人の民家となっている。
杉並区は昔の番地が地番としてかなり残っているので、「ガイドブック」はそこから推定しているのではないかと思う。
ここで再び多喜二は検挙され、杉並警察署などに留置された。
写真は現杉並警察署。
保釈後杉並町成宗88(杉並区成田東5-15)の田口家に下宿しました。
写真は多喜二が下宿したと思われる所であるが、現在はマンションになっている。
この近くの青梅街道は数十年前まで都電が走り、この付近に「成宗」という電停があった。
多喜二は殺される直前まで、母と弟の3人で杉並町馬橋3-375(杉並区阿佐ヶ谷南2-22)に暮らしていた。
この付近は、写真のように現在ではアパート群になっていた。
しかも、このアパートは借地借家法を逃れるため「一時使用の鍵利用契約」という管理手法で急成長し、またトラブルにもなっている会社が管理していた。住人は韓国人が多いようだ。多喜二さんもビックリだろう。
築地警察で虐殺された多喜二の遺体はここに引き取られた。ガイドブック、新書、文学アルバムなどには、引き取られた遺体の写真がナマナマしくのっているが、拷問の跡が痛々しい。
多喜二が杉並に住んでいた当時の「成宗」、「馬橋」という地名は今ない。
「成宗」は田端と合併し、「成田」に変えられた(飛行場であるまいし)。
「馬橋」は高円寺と阿佐谷に分けられ、この地名は消失した。以前のブログで取り上げた石川遼君の杉並学院の所在地名も、昔は「馬橋」だった。地名は大切にしたい。
また、JRの駅も「阿佐ヶ谷」と表記するが、住居表示では「阿佐谷」とされてしまった。つまり地名では「ケ」が取られてしまったのだ。初老で髪の毛が薄くなりつつある世代としては「ケ」が取られて、残念至極である。
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